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━第20回━
「辛い時には、アメリカに来た頃、日系人達に言われた、あの言葉と、上司である、Henri Lewin のことを思い出して、頑張ってこれました。」
2008年3月27日(木)、UNLVにおいて開催された、未来へグループ主催 ホテル講演会において、ゲストスピーカーとして講演して頂いた、佐々木 勉(つとむ
/ アメリカでのニックネームはベン)氏に、同じく講演を行なった、トニーさんと、私、ほりー(共にニックネーム)、両名で伺ってきた、お話の一部を掲載しております。
現在、このホテル講演会の佐々木氏の講演部分をDVDにして、希望者の方に配布中です。料金は$3 + 送料(郵送の場合)です。
ご希望の方は、miraihegroup●yahoo.co.jp までお問い合わせください。(●を@に変えてください)

私は、3人兄弟で、3人共、海外に出たのですが、兄は芸術家で、12年、ヨーロッパに渡っていました。 親父は、兄が英国紳士のようになって帰ってくることを期待していたわけですが、12年ぶりに兄が帰って来てみると、なんと、ヒッピーになって戻ってきたのです。
もう親父はカンカンですよ。(笑) それで親父は、「ヨーロッパになんか行くな、お前はアメリカに行け。」ということで、私はアメリカに行くことになったんです。 本当は、スイスのローザンヌ大学(現在も、アメリカのコーネル大学と並び、ホテルスクールの世界最高峰)に行こうと思ってたんですけどね。
まず私はサンフランシスコに渡り、サンフランシスコ州立大学に入りました。 当時から、ジャパンタウン(日本町)は発展していましてね、日本からの移民者など、日系人がたくさん住んでいました。
私はあまり勉強もせず、映画館に入っては、日本映画を観て、日本の本屋で日本の本を買って読み、日本人とばかり遊んでいました。
そんなある日、20〜30人の日系人に囲まれて、懇懇と話を聞かされたことがあります。
彼らは、「お前は日本人か。」と聞いてくるのです。
はい、そうです、日本人です、と答えると、「お前、本当に日本人なんだろうな。」と言う。
はい、本当に日本から来た、日本人です、と言うと、「お前のように、こっち(アメリカ)に来た日本人には、必ず、言っておかなければならないことがあるんだ。」と言う。
「我々のおじいちゃん、おばあちゃんなどの先代達は、移民としてやって来て、長く苦労をしてきた。」
「その中で日本人として守ってきたのは、勤勉・誠実・正直で、うそをつかない、ということだ。」
「日本人が、なぜアメリカの中で信頼されているか、分るか?」
「先代達が代々、それを守ってきてくれたからなんだよ。」
「だからこそ、日本人だという信用があって雇ってもらえるし、家も借りられるんだ。それを忘れないでほしい。お前も日本人としての誇りを持って、やっていってほしい。」
そんな話を3時間ほど聞かされました。
彼らの表情や声など、その時の光景は今でも鮮明に覚えています。

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|日本人のいない、ワシントンDCへ - 誰よりも多く働く|
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サンフランシスコには、結局、2年ほどいましたが、日本語だけで生活できますから、本当に日本語ばっかりの生活で、一向に英語はしゃべれませんでした。 これじゃあ、いけないと思い、当時、日本人のほとんどいなかった、ワシントンDCに行くことにしたのです。 日本食レストランも1軒ほどしかありませんでしたね。
そして、今はもう無くなったのですが、Hotel Corp. of America という会社に入ったのです。
一緒に入社したのは、アメリカ人・ドイツ人・イタリア人・フランス人・スペイン人・スイス人、そして私の計7人でした。当時のホテルは、ヨーロッパ系の人達が非常に多く働いていたのです。
3ヶ月後、アメリカ人がマネージャーになりました。
まあ、ここはアメリカだし、アメリカ人なんだからしょうがないなと思っていたら、今度は、スイス人がマネージャーになったのです。 彼はワインのエクスパートだし、フランス語もできる、まあ、妥当だろう、と思ってたら、次はフランス人、ドイツ人、スペイン人・・・となり、結局、最後に日本人の私だけが取り残されました。
私は、一生懸命仕事をしているつもりでしたので、なんで自分だけ、と思い、上司の所に文句を言いに行ったんです。
なぜ他の人と同じように頑張って働いているのに、私だけがマネージャーになれないんですか、と聞くと、上司は、「だからお前はダメなんだよ。皆と同じように、じゃダメなんだよ。お前はワインに詳しいか?フランス語やスペイン語ができるか?英語ですりゃ、皆よりしゃべれないんだろ。」と言われました。
確かに私は、英語もフランス語も何もできない、ワインも知らない。このアメリカ人やヨーロッパ人達にどうやって勝とうかと考えた時に、パッと、あの日系人の日本人の勤勉さ、という話を思い出したんです。
それからというものの、私は人よりも、ずっと多く働いてやろうと思い、誰よりも先に出社し、レストランのセッティングや清掃をし、皆が出勤する頃には、すべて準備を終えていました。 そして営業後も、誰よりも最後まで残り、清掃し、次の日のスタンバイをしました。
初めは周りの皆は、なんで勤務時間外まで働くんだ、と不思議に思われていましたが、次第に、ベンがいるなら大丈夫、と認めてもらえるようになってきました。
人よりずっと多く働いて、また仕事もできる。 そうしていったら、会社も、今度、誰かを昇進させよう、という話が出た時には、それならベンにしよう、と勧めてくれるわけです。 誰よりも働いているんだったら、上の人は、昇進・出世させてやろう、という気になるものです。
アメリカは実力社会なんで、必ずそういう機会が回ってくるのです。 日本は、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、で派閥やコネなどが大切になってくるのですが、アメリカにはそれがないのです。

上司にも恵まれました。
Henri Lewin 、彼は、ドイツ系ユダヤ人でした。
第2次世界大戦で、ナチスから逃れる為、上海に渡り、彼は、外国人地区でレストランをやっていました。 そしたら今度は、日本軍の兵隊に追い出されてしまい、難民ボートに乗って、サンフランシスコに向かったのです。
サンフランシスコに近づき、ゴールデンゲートブリッジが見えてきて、夜で暗い中、丘の上に、チカチカと輝く、ザ・フェアモント・サンフランシスコ(1907年開業の高級老舗ホテル)を見つけ、そこで働こうと、彼はバスボーイから始めたのです。
その後、彼はフェアモントのGM(総支配人)となり、サンフランシスコ・ヒルトンが、治安の悪い地域に開業して苦戦をしていた時に、コンラッド・ヒルトンから、直々に引き抜かれたのです。 私がヘンリーに会ったのはその頃でした。
ヘンリーは、最終的に、ヒルトン・コーポレーションの Executive Vice President にまでなったのですが、彼には、サービス精神というのを徹底的に叩き込まれました。
とにかく何をするにも文句をガミガミ言うのです。 私がラスベガス・ヒルトンにいる頃にもよくやってきて、色々言われました。
コンプ(コンプリメンタリー / 上客への無料サービス)を出すのにも、文句を言うのです。
「なぜ、リムジンを出すんだ。どのくらい良い客なんだ、その価値はあるのか。」と言う。
私が、これこれこういうわけで、カジノの上客ですので、リムジンを出します、と言うと、「そのゲストの到着時間はいつなんだ、お前も迎えに行くんだろうな。」と言う。
いえ、私は会議がありますし、お迎えには行けません、と言うと、「なぜ、お前が迎えに行かない。お前が行ってこそ、初めてサービスとなるんだ!」と言うわけです。
「フルーツバスケットをルームサービスの者に持っていかせているようではダメだ、そんなんじゃない、お前が行くんだ。レストランの予約は19時か、それなら19時にお前がレストランの前に立って、ゲストをお迎えするんだ。」と言う。
ヘンリーには、" You're fired ! "(お前は首だ)と、合計32回、首にされました。
そう言われて、夜、とぼとぼと家に帰ると、" You wanna eat dinner with me ? "
(一緒に晩飯でもどうだ)と、電話がかかってくるのです。
" Barking Dog Never Bite " (ほえる犬は噛まない)などと言いますが、彼は口やかましかったですが、不況であろうが、けっして従業員を首にはしませんでした。
私もすごく落ち込んだ時がありますが、そんな時、ヘンリーは、毎日、電話してきてくれて、励ましてくれました。 彼は私の心痛な気持ちをよく理解してくれました。なぜなら彼は、自分自身も辛い思いをし、辛酸をなめてきていたので、人生をよく知っていたからです。
ヘンリーは、人生の中で、ナチス、そして日本軍によって、2回も無一文にさせられたのです。彼は頭も良かったですが、誰よりも働き、どん底から這い上がり、そこまで出世したのです。
私は辛い時には、アメリカに来た頃、日系人達に言われた、あの言葉と、上司である、Henri Lewin のことを思い出して、頑張ってこれました。 日本に帰りたいなどという気持ちより、とにかく何が何でもやらなきゃいかん、という思いで、がむしゃらに働いてきました。 だからこそ、英語も何もできなかった、特段、才能も何も無い、日本人の私が、このアメリカ人やヨーロッパ人達の世界の中、ラスベガス・ヒルトンという巨大なホテルの副社長、上から3番目にまでなれたのだと思います。
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